自宅前海岸からYさんが住んでいた辻堂方面を見渡す。
携帯の着信歴16:16
「H堂のTです。うちのYが亡くなりました・・・・」
言葉がでない。
「無念です。お通夜、告別式の詳細がわかりましたら教えてください・・」
と答えるのが精一杯だった。
T局長代理さん、ご連絡ありがとうございます。
一線を離れた自分に一報頂いたご恩は忘れません。
愛犬を連れて海に向う。
涙で海を眺めるのは2度目だ。
1度目は昨年2月辞表を書く前、そして今日。
Yさんとの出会いは1983年。
会社は違うが、Yさんも僕もフジテレビ担当だった。
すなわちカウンター同士、扱い奪取に向け熾烈な争いを繰り広げていた。
破竹の勢いで三冠王に駆け上っていくフジテレビの影には、
広告会社のさまざまなドラマもあった。
Yさんは僕より年上であったこともあり、
戦い終われば気さくな会話をしてくれていた。
H堂というより電通に近い雰囲気をもっていた先輩だった。
僕は1987年から新聞社担当部署へ異動。
電波業界で出会う機会はなくなったが、
同じ湘南地区在住故に通勤途上でたまに再会していた。
「柴田、元気か!?」
といつも先に見つけて声をかけてくれた。
僕は2002年4月に部長になった。
その年の7月頃だったと思う。
Yさんから会社に電話をいただいた。
「柴田部長、H堂のYさん!?という方から電話です」
電話に出た部下は当惑気味につないだ。
「柴田、すまん。お前が部長昇格したのをたった今聞いた・・・」
後日ご馳走になった。
2006年4月に退社した時も声をかけてくれた。
2006年6月21日(水)
テレビ局長という多忙な要職にありながら時間を割いていただいた。
そして銀座の小料理屋で話したのが最期となってしまった。
西洋医学が見放した体内複数個所に転移したガン細胞を
中国に渡り気功で治した話を伺った。
そして数奇な運命の出会い話。
「映像、映画化になるコンテンツですね!」
と笑いあった。
また、僕の起業内容にも熱心に耳を傾けてくれた。
ご自身が体験したこともあり、
スピリチュアルな話も自然体の会話となっていた。
明らかにYさんは変った。
自分が以前知っていたYさんが、
更にひとまわり大きくなられたと感じた。
帰り際に
「何かあったら言ってこいよ!」
と笑いながら握手をしてくれた。
あの笑顔を見ることはできないのか・・・・・。
訃報を聞いて海岸を歩いていた時、一艘の船に目がとまった。
舳先を海に向けながら丘にあがった船。
明日も明後日も漁に出ることだろう。
現役でいながら壮絶な闘病の末に亡くなったYさんと重なった。
振り返る23年間の電通人生は様々な出会いの連続だった。
そして多くの先輩諸氏から学んだ。
Yさんは会社こそ違うが、尊敬する先輩のお一人だった。
いや、親愛なる兄貴といった存在だったかも知れない・・・。
アメリカ・インディアンには誕生日を祝う習慣がない。
それは人の成長を生きた時間で計ろうとしないからだ。
人の命は肉体の死で終わらない、死で住む世界が変るだけだ、
と考えている。
『死は終わりではなく、新たな始まり。
死を経て人は多くを学び、より賢くなってまた生まれ変る。』
というのがアメリカ・インディアンの死生観。
Yさん、ありがとうございました。
またお逢いしましょう。